銅銭糖の歴史

熊本県大津町の郷土菓子

銅銭糖とは

熊本県の大津は古くから阿蘇路へとつづく道中の宿場町として栄えてきました。 今から百六十年以上前の昔、もち米の生産加工が盛んになり、初代創業者である藤次郎がその当時はまだ少なかった菓子店を創業し羊羹(ようかん)や落雁を製造しておりました。 途中、戦争などもあり存続の憂き目を見ることもありましたが、現在まで七代にわたり続けてまいりました。

創業者が生んだ銅銭糖

菓子店として順調に商い始めた安政の頃、当時、訪れる客は一厘銅銭を重ねて紐に通し棒状にしたものを持ち歩いていました。 その姿から藤次郎が着想を得て、銅銭を五十枚重ねた大きさの落雁に、その銅銭の穴にあたる部分に餡を入れ、苦心の末、菓子へと仕上げました。 そうして生まれた銅銭糖、今では大津定番の郷土菓子になっています。

文化人も愛した、伝統菓子

大正九年には、同じく看板商品の阿蘇の雪とともに昭和天皇陛下(当時、皇太子)より御台覧の誉をいただくことができました。 また、大変な菓子好きであった熊本が生んだ俳人の中村汀女が浪花屋本店を訪れており、自身の著書「ふるさとの菓子」に句とともに銅銭糖の思いを綴っています。
(書籍名:ふるさとの菓子,中央公論社,昭和30年)

浪花屋本店の銅銭糖

肥後大津の老舗菓子店として、創業より百六十年以上で作り続ける。

銅銭糖とはもち粉と砂糖を水で練った落雁で、あんこを包んだ上品な伝統菓子です。 ほろっ、と優しい口当たりの落雁に、時間をかけて丁寧に練りこんだ餡。 昔から変わらない材料だからこそ、職人の経験と勘が味の決め手です。 現在、七代目となる老舗「浪花屋本店」は、地域の人々に支えられながら大切にのれんを受け継ぎ、ひとつひとつ心を込めて手作りしています。

浪花屋本店の伝統を守る

六代目・古庄玲子は、五代目から銅銭糖の作り方(分量)を一切教えられなかった為、一時期その歴史が途絶えようとしていました。 しかし今で言うレシピすら無い中、今は亡き夫と試行錯誤・失敗に失敗を繰り返した末、現在の銅銭糖にようやく辿り着きました。
「その日の気温や湿度で配合は変えます。水一滴で粉の柔らかさが変わってくるので勘が頼り」という言葉が物語るように、毎日同じ味の銅銭糖を作るのは簡単な事ではありません。

嫁が受け継ぐ、伝統の和菓子作り

現在の代表、七代目 古庄智子(さとこ)

コーヒータイム臨時号(H24.8)より

玲子さんの後継ぎとして名乗り出たのは、次男の嫁の智子さん。 義母がこだわり抜いた伝統の味を守るため、現在修行の日々を送っています。 「勤めを辞めて、私が店を継ぎます」。平成23年の母の日、智子さんは、店を継ぐ意思を初めて玲子さんに伝えました。 当時の智子さんは、自動車部品製造会社に25年間勤めるベテラン社員。予想もしていなかった嫁からの告白に玲子さんはびっくり。 しかし、智子さんの胸の内には、「店を守りながら、私の二人の娘の子育てにも協力してくれた義母への感謝の気持ち」と、「大津町の伝統の灯を消すのはもったいない」という二つの思いがあり、すでに決意を固めていました。 あと1、2年くらいで店を閉めようかとも考えていた玲子さんにとって、思いがけない母の日のプレゼントになりました。

義母のこだわりの味を受け継ぐため、智子さんは日々「感覚で覚えていくしかない」と腕を磨いています。 「毎日が真剣勝負。1本1本心を込めて作るのみ」と真剣に取り組む嫁の姿に、「筋がいい。様子を見ながら、徐々に店を任せていきたい」と玲子さんも太鼓判を押しています。 「手づくりならではのホッとするような素朴なおいしさを、若い世代の人たちにも伝えていきたい」と智子さん。
その表情には、七代目として、義母のこだわりの味を引き継ぐ覚悟が現れていました。

銅銭糖の作り方

心をこめて、すべて手作り。

1.白あん・黒あん共に、大鍋にて当店でじっくりと練り上げます。
2.そのあんこを一定のサイズに手のひらで伸ばし、木枠の長さ・細さに揃えます。
3.丸鍋に砂糖・もち粉・水を合わせ入れ、両手で数分こねます。
4.ふるいでこした粉を木枠に入れ、棒であんこのスペースを空洞にします。
5.その穴にあんこを挿入し、上下共に粉をかぶせて出来上がりです。

昔ながらの木枠を今も変わらず使用しているため、一度に出来上がる銅銭糖はたった7本。 大量生産はできないからこそ、手作りの美味しさが引き立ちます。